神社・仏閣

三門を越えて直ぐに、チョッとくすみかけた紅葉。三門は特別公開してるようで、上にも人だらけなんでPassしました。同じ位置から少し右へ振ってみました↓↓↓

光の当たり方が少し変わるだけで、色合いがこんなにも違って見えます。それではもう少し奥のほうへ行って見ましょう。
つづく・・・
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先ずは楼門を潜り、境内を散策しときましょ。

鐘楼

明王堂

毘沙門堂

太子堂

金堂

金堂から臨む、五大堂と毘沙門堂

多宝塔

弘法大師空海が灌頂に使用する浄水を得るため、自ら掘ったと伝えられる井戸、閼伽井。
境内を一通り周ってから、小学校の教科書で見たことのある、源 頼朝像が公開されている書院へ向かいました。

残念ながら書院で公開されていた肖像画や書簡等は、大人なんで撮影しませんでしたのでありません。
オフィシャルページの画像リンクを貼っておきます↓↓↓
http://www.jingoji.or.jp/event5.jpg
源 頼朝の肖像画は、教科書からイメージするよりズッと大きくて、ガラス越しではなく触れることが出来るくらい近くで鑑賞できました。この肖像画が源 頼朝かどうか諸説あるようですが、鳥肌モンでしたね。普段は京都美術館!?に保管されているらしく、毎年この時期に公開されていますので、足を運んでは如何でしょうか?
住所:京都市右京区梅ヶ畑高雄町5番地神護寺
TEL:075-861-1769
オフィシャルページ:http://www.jingoji.or.jp/
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美山窯さんで蕎麦を堪能した帰りに寄り道してみました。「霊瑞山酬恩庵」はとんちで有名な一休さんのお寺。
正応年間(1288 - 1293年)に南浦紹明が開いた妙勝寺が前身である。元弘年間(1331 - 1334年)に兵火にあって衰退していたのを、康正2年(1456年)に一休宗純が草庵を結んで中興し宗祖の遺風を慕い師恩に酬いる意味で酬恩庵と号した。その後、一休は文明13年11月21日(1481年12月12日)、88歳で亡くなるまでをここで過ごし臨終の際には「死にとうない」と述べたと伝わる。なお、金春禅竹が総門のまえで一休のために能を演じたという。
永禄3年(1650年)、前田利常が伽藍を再興し狩野探幽によって描かれた障壁画43面を納め江戸幕府から朱印状が与えられた。
一休の墓は「慈揚塔」と呼ばれ境内にあるが、宮内庁が後小松天皇落胤説に基づき御廟所として管理しているため、一般の立ち入り・参拝は不可能である。(wikipediaより)
中門を潜り台所である庫裏へ入ると、枯山水で有名な方丈庭園が観られます。
こじんまりとしてますが、なかなか趣きのある庭園です。回廊を回って北庭へ。
光の加減で上手く撮れてませんが、小ぶりながら石組で枯れ滝を表現した禅院枯山水の蓬莱庭園です。
東庭は多くの庭石と刈り込みをふんだんに使い、十六羅漢の遊行するさまを表わしているとか。
本堂のには本尊釈迦如来坐像と文殊・普賢菩薩像が安置されています。
本堂をさらに奥に入ると、開山堂がたっています。このあたりは妙勝寺の旧跡にあたるところ。
境内は意外に広く、オフシーズンながらお参りに来ている方は何組かいらっしゃいました。アニメの一休さんは史実に基づいて製作されいたところがあったということを今更ながら判りましたわ。
住所:京都府京田辺市薪里ノ内102
TEL:0774-62-0193
オフィシャルページ:http://www.ikkyuji.org/
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6日というのに人出は結構多く、手水舎に人が並んでます。さすがにPassするわけにはいきませんので、並んで手と口を清めて本殿へ向かいました。途中に露店が沢山出てますが、何処でも喰えるモンしかありませんな・・・ 本殿へ着くと初詣用の巨大な賽銭箱が鎮座してるのは如何なものかと思いますが、おとなしく並んでお参りしました。


それにしてもえらい人やなぁ・・・ ここで相方が本厄やということに気が付いて、何か厄除けになるものを買おうとしますが、一番安い¥1,000の破魔矢は既に売り切れ。結局、何も買わずに昼飯喰いに出かけました。
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笠松公園から降りてきて左へ。団体さんの一団に逆走し、亀が山盛り居る小さな池を通り過ぎると立派なお社が。
案内板には神社の縁が記されていました。その横には、我が国の国歌である君が代に登場する「さざれ石」が。
相方に君が代の歌詞の一節を呟くと「右翼」やと言わんばかりの目で見られてしまいましたわ・・・ 一回りも違うと君が代って歌えへんにゃね・・・
丹後一宮 元伊勢 籠神社
http://www.motoise.jp/index.html


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日向は灼熱ですが日陰はマシです。

山門は貫首以外は通行できないらしく、修行僧も一生のうちで、永平寺に入門する時と修行が終わって下山する際の2回しか通行することが無いとか。

昭和5年建築の傘松閣の天井画。川合玉堂、伊東深水など計144名の画家によって描かれたとか。

仏殿は、明治35年(1902)、高祖大師650回忌を記念された総欅造りの中国宋代の形式に従った石畳敷きのもの。別名、覚王宝殿あるいは三世如来殿とも呼ばれる。

緑が綺麗ですね。


山門には四天王が奉られています。東側には東方の守護神「持国天」と北方の「多聞天」。西側には西方の守護神「広目天」と南方の「増長天」。

宝物館ではフォログラムのように浮かび上がる達磨大師が。
つづく・・・
非公式サイトですが曹洞宗 大本山 永平寺の許可を得て制作されています。
http://www.mitene.or.jp/~katumin/eiheiji/soutou1.htm
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公式HPには、「当社は今から千五百年程前、雄略天皇の御代に創設された神社で、平安時代には官社となり、式内社として人々の尊信を集めてきた神社です。
日本書記には「雄略十三年春三月、餌香長野邑を物部目大連に賜う」とありますが、餌香長野邑は、旧藤井寺町のあたりと思われます。この地方を治めることになった物部氏は、その祖神を祀って神社をつくり、その後、辛國氏が祭祀をつとめ辛國神社と称するようになりました。
三代実録には、清和天皇「貞観九年二月二十六日河内国志紀郡辛國神社を官社に預る」とあります。元の神社は恵美坂の西南神殿にあったと思われます。室町時代(義満の頃)河内守護職畠山基国氏が社領二百石を寄進して、現在地に神社を造営し、奈良春日大社に懇請してその祭神、天児屋根命を合祀したと伝えられています。明治四十一年、長野神社の祭神素盞鳴命を合祀して現在に至っています。」とあります。
まずは一ノ鳥居を潜ります。結構奥行きありますねぇ。この鳥居は新しそうですね、修復されたものです。
二ノ鳥居は、元々葛井寺に境内にあった長野神社の鳥居だとか。明治41年に合祀されたこの鳥居には長野神社の銘が刻まれていました。
システムキッチン見に行かなあかんので引き上げますか・・・
http://www.karakunijinjya.jp/


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正面大鳥居を潜る前に、八条ケ池を左側へ回遊しましょ。 寛永15年(1638)に当時の領主・八条宮が造るように命じた、灌漑用の溜め池です。 外周は約1㎞、貯水量 は約35,000トンあるといいます。

中堤真ん中の石の太鼓橋から大鳥居を臨みます。しっかし画質悪いなぁ・・・・



総御影石製の大鳥居は、平成14 年の菅公御神忌1100年大萬燈祭を奉賛して、平成10年10月に奉納 されたそうです。

本殿は昭和16年に京都平安神宮の社殿を拝領移築したもので、設計は東大教授の伊藤忠太氏で、三間社流れ造り、素木の本殿で端正で丈が高く美しい姿をしております。 現拝殿は平成10年に既存の素木の拝殿を朱塗りにし増改築したものだそうです。お参りした後、八条ケ池へ戻ります。
ちょっと汚い池ですが・・・綺麗に菖蒲の花が咲いてました。


六角堂が八条ケ池に突き出してます。そうそう、写真を撮ることは出来ませんでしたが、水上植物ゾーンにカワセミがいてはりました。カワセミは水の綺麗なところにしか居ない鳥だと思っていましたが、食料が安定的にあるので居ついてしまったんでしょうね。貴重な体験が出来てラッキーでした

さて、昼飯喰いに隣町へ移動しましょう。
http://www.nagaokatenmangu.or.jp/
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新ちゃん!!
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