新ちゃん!!のきまぐれ

オッサンが日々のきまぐれを綴ります

西国三十三箇所巡礼

西国四番札所 槇尾山 施福寺

石臼挽手打蕎麦処 いづみやを後にし、ナビ検索して西国四番札所 槇尾山 施福寺へ向かいます。ナビの検索画面を見て嫌な予感はしたのですが、結構細い山道が終盤続くみたいです。 相方が施福寺の案内看板を見つけナビルートから外れます。狭い住宅街を抜けると案の定、細い道が・・・ とは言うものの、仕方ないのでそのまま進みます。行き止まりまで行くと左手に参拝者用駐車場がありましたので滑り込みます。ナビの検索ポイントからは約600mありますが歩きましょう^^ 土産物と飲食店を抜けた右側から滝の音が聞こえます。滝に目の無い相方が寄り道しようって事で期待せず鳥居を潜ります。

満願滝弁才天1

おぉ~結構な落差ありますやん 期待してなかっただけにめっけもんでした 

満願滝

それでは山門目指して入山しましょう

施福寺2

コンクリートで舗装されてますが結構な急勾配です それにもめげず山門を目指します。軽く汗をかいたあたりで山門に到着しました。

施福寺山門

山門には行程30分と書かれてましたんのゆっくり登ることにしました。暫く登り続けますが結構キツイです ここで相方がリタイア宣言・・・ 折角来たんで私が代わりに御朱印いただいてくると宣言し、相方を下山させました。無理して登っても体調悪そうなんで心配ですからね。カッコええこと言ったんで頑張って登りましょ しかし程なく後悔しました。何でって??めっちゃキツイですやん とは言うものの後戻りは出来ませんので黙々と登り続けました。途中で何度も挫折しそうになりましたが、建造物が見えました。

施福寺愛染堂

空海が得度して剃髪したとされる場所には愛染堂。多分もう少しで本堂に辿り着けるでしょう。

施福寺弘法大師御髪堂

空海が剃髪した毛髪を祀るとされる弘法大師御髪堂。ラストスパートです。ようやく登りつめ、手水鉢で手と口を清めて本堂へ向かいます。

施福寺本堂1

本堂へお参りし納経所で御朱印をいただき、境内を少し散策し相方へ御朱印いただいた事を報告し下山しました。下りは地球が引っ張ってくれるんで早いですわ しかし久しぶりに山道歩いたんで翌日は筋肉痛でしょうね・・・

第29代欽明天皇の勅願寺。 仏教公伝538年頃の創建で日本有数の古い寺です。役の小角、行基菩薩等の山岳修行の道場であり弘法大師 空海が勤操大徳について出家得度した寺と有名です。

深山路や 檜原松原 わけゆけば 巻の尾寺に 駒ぞいさめる

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西国番外札所 華頂山 元慶寺

天気予報がハズレ!?て日が差してるんで出かけましょう。京都マラソン開催で市内は交通規制だらけ。避けるように迂回しましたが、河原町通から五条通へ抜けましたが全くの渋滞なし。みんな警戒して車での外出を控えたんでしょう。ナビどおりに車を進めますが、行き止まりのような住宅街の途中で音声案内が終了。地図を広域にして目的地を探します。広域にすると元慶寺は華山寺の奥側にあるようですが、駐車出来るような場所は見当たりません。仕方ないので花山中学校前の少し広めの道路へ駐車し、相方だけを送り出し待機。なかなか戻ってこないので迷ってるんやろかと「境内の写真撮っといて」とMailすると直ぐに「既に撮ったよ」って返信が。程なく戻ってきたので話を聞くと「2、3組の人が御朱印貰いに来てたわ」と。こんな判りにくいところで、しかも番外札所なのに。ってことで↓の写真は相方撮影のものです。


元慶寺3
元慶寺2
元慶寺1

藤原高子の発願により建立。僧正遍昭を開基とし、元慶元年(877年)に建立された。西国三十三箇所霊場の番外札所である。本尊は薬師如来。

寛和2年(986年)、花山天皇がこの寺で藤原兼家、道兼父子の策略により出家させられ、兼家の外孫である懐仁親王(一条天皇)が帝位についた(寛和の変)。花山寺とも呼ばれ、大鏡では花山寺と記述されている。

『待てといわばいともかしこし花山(はなやま)にしばしと啼(な)かん鳥の音もがな』

さて昼飯何処にしましょかね?

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西国二十二番札所 補陀洛山 總持寺

Cafeぶいえいとをあとにして、中途半端な時間なんでどこか寄ってから帰ろうって事に。總持寺って近くなかった?ってことでナビで検索すると6Kmくらいなんで向かいます。住宅街の奥まった細い道の先にありました。駐車場へ停めて正面から入山しましょ。

總持寺山門

立派な山門です。手前の手水鉢で手と口を清めて本堂をお参りしようと近づくと、水が自動的に出てくるでは有りませんか オオーw(*゚o゚*)w ハイテクですやん。

總持寺本堂

思ったより境内の敷地は広いです。本堂へお参りしましょ。あなたお賽銭はまたもや便乗ですか・・・ 御利益減っても知らんで お参りのあとはしばし散策。

總持寺境内

池の畔で梅の花が咲き始めてます。春の息吹を感じることが出来ました。
納経所で御朱印を戴いて、晩飯の材料買い込みに高槻の西武へ向かいましょ。

『おしなべて 老いも若きも 総持寺の ほとけの誓い 頼まぬはなし』

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西国二十三番札所 應頂山 勝尾寺


今日は箕面方面へ向かいましょ。今日の目的は、ランチをCafeぶいえいとで戴くことをメインに巡礼です。
応頂山 勝尾寺へ到着。金かかってるような地下駐車場へぶち込みます。

勝尾寺1
勝尾寺2

いつだったか相方に連れてこられたことがあるんですが、まさか西国三十三箇所巡礼に付き合うとは思っても見ませんでした。

勝尾寺3

1603年(慶長8年)豊臣秀頼により再建された山門。

勝尾寺4

観音菩薩と金剛界大日如来をお祀りしている多宝塔。花の時期ならもっと艶やかなんでしょうね。

勝尾寺7

本堂に比べて幾分くたびれた感のある奥の院にある薬師堂。鎌倉初期に建立された現存する勝尾寺最古の木造建築物とか。

勝尾寺6

勝運に長けたお寺のようで、達磨がたくさん奉納されています。
納経堂で御朱印を頂き、境内を散策しました。

勝尾寺9
勝尾寺8

弁天池に浮かぶ弁財天。

伝承によれば、勝尾寺の草創経緯は次のとおりである。神亀4年(727年)、 藤原致房の子の善仲、善算の兄弟はこの地に草庵を築き、仏道修行に励んでいた。それから約40年後の天平神護元年(765年)、光仁天皇の皇子(桓武天皇の異母兄)である開成が2人に師事して仏門に入った。宝亀8年(777年)、開成は念願であった大般若経600巻の書写を終え、勝尾寺の前身である弥勒寺を創建した。そして、数年後の宝亀11年(780年)、妙観が本尊の十一面千手観世音菩薩立像を制作したと伝えられる。

『重くとも 罪には法の 勝尾寺 ほとけを頼む 身こそやすけれ』

さて昼飯ポイントの『Cafeぶいえいと』さんへ向かいましょう^^

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西国十一番札所 深雪山 上醍醐 准胝堂

さて次のポイント、西国十一番札所 深雪山 上醍醐  准胝堂。ナビセットして向かいます。結構な細い山道。こんなとこに有るんかいなってナビポイントに到着。何もありません・・・間違えたって思いましたが看板が。西国三十三箇所御朱印は醍醐寺下伽羅で受け付けてると 事前リサーチ不足を痛感した瞬間でした・・・ 結構な山道上ったのに 気を取り直して醍醐寺に向かいます。これまたアホナビは醍醐寺南門をデフォルトで示しやがりました。勘で周囲を徘徊し駐車場発見しすべりこみます。

醍醐寺西大門2

金堂へ向かいましょ。

醍醐寺金堂S

現在平成20年8月の落雷が原因による火災によりお堂が焼失したため、下醍醐金堂に、准胝観音を安置しているそうです。 御朱印は22年から下伽羅で受付との事。プレハブでしたけどね・・・御利益あるんでしょうか・・・

で散策。

醍醐寺五重塔S
醍醐寺弁天堂2

『逆縁も もらさで救う 願なれば 准胝堂は たのもしきかな』

さて本日は引きげますか。

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西国十番札所 明星山 三室戸寺

天気も最高なんで久しぶりの西国三十三箇所巡礼へ出かけましょう。宇治の明星山 三室戸寺へ向かいましょ。なんでか判りませんがナビが遠回りさせますが到着。

宝亀元年(770年)光仁天皇の勅願により南都大安寺の僧行表が創建したものという。創建と本尊に関しては次のような伝承がある。天智天皇の孫にあたる白壁王(後の光仁天皇)は、毎夜宮中に達する金色の霊光の正体を知りたいと願い、右少弁(右少史とも)藤原犬養なる者に命じて、その光の元を尋ねさせた。犬養がその光を求めて宇治川の支流志津川の上流へたどり着くと、滝壺に身の丈二丈ばかりの千手観音像を見た。犬養が滝壺へ飛び込むと1枚の蓮弁(ハスの花びら)が流れてきて、それが一尺二寸の二臂の観音像に変じたという。光仁天皇がその観音像を安置し、行表を開山として創建したのが当寺の起こりで、当初は御室戸寺と称したという。その後、桓武天皇が二丈の観音像を造立、その胎内に先の一尺二寸の観音像を納めたという。

三室戸寺山門S

山門を潜って本堂へ向かいましょう。

三室戸寺本堂

6月~7月なら紫陽花が、7月~8月なら蓮が綺麗に咲いているそうですが、今の時期は何も有りません。
手水鉢で手と口を清めて本堂をお参りしようと思いましたが、手水鉢の水が止められていてできませんでした・・・
本堂のお参りを済ませ、納経所で御朱印を戴いた後、しばし散策を。

三室戸寺鐘楼他2

宝勝牛がくわえている牛玉の観音様に触れると、勝運に恵まれるといいます。
いっぱい触って来ましたんで良い事があればええんですけどね。

『夜もすがら 月を三室戸 わけゆけば 宇治の川瀬に 立つは白波』

さて昼飯喰いに移動しましょう。

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西国十九番札所 霊麀山 行願寺

善峰寺を後にして、昼飯喰いに北へ向かいます。しっかし五条通り込んでるやん 烏丸通りもなかなかの込みっぷり。相方が「大丸の駐車場渋滞違う??」ビンゴ 右車線はおっしゃるとおり大丸渋滞。二時までに目的のお店へ着かないとと焦りつつ、手打そば 蕎麦切塩釜へ到着。二時まわってるやん
店の前通った際に暖簾が出てるのは確認済み。取りあえず、コインパーキングへ停めてお店に急ぎます。
なぁ~んや、三時迄やん^^ いつも通り、空いてる席あるのに何故か合席。天婦羅せいろセットと鳥なんばセットをお願いし暫し待つ。いつも通りの盛りっぷり あったかい鳥なんばも、普通の店やったら大盛サイズ。セットのかやくご飯も軽くお茶碗2杯分くらい。この期に及んでかやくご飯喰えんと相方がギブアップ宣言。仕方ないので全部たいらげ、腹一杯で目的地へ移動。

蕎麦切塩釜 天婦羅せいろセット2

ちょうど斜め前のコインパーキングに1台空きが。(2台しか停められませんが・・・)

行願寺0

行願寺は寛弘元年(1004年)、行円が一条小川の一条北辺堂跡に創建したものである。一条北辺堂については、『日本紀略』永祚元年(989年)8月13日条に「一条北辺堂舎倒壊」とあり、行願寺の創建以前から存在したことが裏づけられる。当初の寺地は現在の京都市上京区、京都御苑の西方で、付近に革堂町、革堂仲之町、革堂西町の町名が残る。鹿の皮を常に身につけていたことから、皮聖、皮聖人などと呼ばれ、寺の名も革堂と呼ばれた。行円の生没年は未詳だが、比叡山の横川(よかわ)出身の聖と推定されている。藤原道長の息の藤原顕信は寛弘9年(1012年)、行円のもとで剃髪出家している。

寺は豊臣秀吉による都市計画のため、天正18年(1590年)に寺町荒神口(現・上京区、京都行願寺は寛弘元年(1004年)、行円が一条小川の一条北辺堂跡に創建したものである。一条北辺堂については、『日本紀略』永祚元年(989年)8月13日条に「一条北辺堂舎倒壊」とあり、行願寺の創建以前から存在したことが裏づけられる。当初の寺地は現在の京都市上京区、京都御苑の西方で、付近に革堂町、革堂仲之町、革堂西町の町名が残る。

行円は仏門に入る前は狩猟を業としていたが、ある時、山で身ごもった雌鹿を射たところ、その腹から子鹿の誕生するのを見、殺生の非を悟って仏門に入ったという。行円はその御苑東側)に移転。宝永5年(1708年)の大火の後、寺町荒神口の旧地からやや南に下がった現在地に移転。

行願寺2

手水鉢でお清めして本堂へお参りに行きます。またもやここでも奴はここでもお賽銭便乗・・・
お参りした後、本堂脇の社務所へ。笠をかぶった熱心な巡礼者と思しき方の後ろへ並んで順番を待ち、暫くして御朱印を戴きました。

ちょっと境内を散策。といっても、民家に挟まれた小さな境内ですので時間はかかりません。
こちらのお寺には幽霊絵馬という伝説をもつ絵馬があるとか。江戸時代の末頃、行願寺の近くにあった質屋に奉公していたお文という子守女は、聞き慣れた御詠歌を子守歌がわりに口ずさみ、子供まで御詠歌を覚えてしまった。熱心な法華信者であった質屋の主人はこれを見とがめ、お文を折檻し、死なせてしまう。あわてた主人はお文の遺体を土蔵に隠し、知らぬふりをしていた。お文の両親が行願寺で通夜を営んでいたところ、彼女の幽霊が現れ、事の次第を語ったので、真相が明らかになり、質屋の主人は捕らえられたというものである。絵馬にはお文の遺愛の手鏡がはめこまれているという。境内を探してみましたが見当たりませんでした。帰って調べてみると、毎年8月20日過ぎに、この幽霊絵馬は公開されるようです。

行願寺3
行願寺4

花を見て いまは望みも 革堂の 庭の千草も 盛りなるらん

手打蕎麦 蕎麦切塩釜の記事:http://blog.livedoor.jp/hideo6581/archives/2258283.html

腹一杯すぎて晩飯も喰えるはずも無く、だけしか入りませんでした・・・ 酒だけは別腹なんで

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西国二十番札所 西山 善峰寺

今日はお天気もほどほどなんで、近くの西国二十番札所 西山 善峰寺へ。小学校の遠足以来、ほんま久しぶり。境内下に立派な駐車場ができててビックリ早速向かいます。

『善峯寺縁起絵巻』等によれば、長元2年(1029年)、源信の弟子にあたる源算が創建したという。その後、長元7年(1034年)には後一条天皇から「良峯寺」の寺号を賜った。鎌倉時代初期には慈円が住したことがあり、このころ後鳥羽上皇直筆の寺額を賜ったことによって寺号が善峯寺と改められた。青蓮院から多くの法親王が入山したため「西山門跡」と呼ばれた。応仁の乱に巻き込まれて伽藍が消失したのち、江戸時代になってから桂昌院の寄進によって再興された。


善峰寺15

こんなに立派な山門やったっけ 遥か昔の記憶しかありません・・・ 本堂へ向かいます。

善峰寺6

手水鉢でお清めして本堂へお参りに行きます。またもや奴はお賽銭便乗・・・
本堂脇の社務所へ御朱印戴きに参ります。ちょっとした行列ができてました。

お昼まで時間が有りますので境内を散策。案内図の通りに廻るんですが、およそ40分の行程。

善峰寺7

天然記念物の「遊龍の松」 齢約600年以上の五葉松で龍が遊んでいる様な全長40数mにも及ぶ。日本一の松と人口に膾炙(かいしゃ)されている。

善峰寺8

幸福地蔵脇から望む京都市内。京都タワーまで綺麗に見えてました。

善峰寺9

釈迦堂。神経痛・腰痛に効能があると知られる薬湯風呂が脇にある。平成20年まで年2回、5と10月の第二日曜日には随時入浴できたようである。

善峰寺10

奥の院を過ぎたところにある池は凍ってましたよ因みに厚さは5mm程度。
つーか、雪振ってきたやん

善峰寺12

経堂と多宝塔。さて昼飯喰いに北へ向かいますか。


善峰寺14

『野をもすぎ 山路にむかふ 雨の空 善峯よりも 晴るる夕立』


道中、長岡天神駅前を通ったのですが、以前紹介した京ホルモン こころ焦がれが火事でブルーシートで覆われててビックリ。何があったんでしょうか???
http://blog.livedoor.jp/hideo6581/archives/2869841.html

ぐるなびで検索したら「お探しのページは現在準備中です。」とお店の情報は無くなってました。
妹一号に聞いてみますと、今週火事になったと言っておりました。

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西国十六番札所 音羽山 清水寺

六波羅蜜寺を後にし、東山通りを南下。オフシーズンとはいえ観光スポットなので、清水坂からアプローチ。
1Kmほどの道のりですが、結構ハードな上り坂 なんとか仁王門へ到着。

清水寺 仁王門

一休みして仁王門から入山。

清水寺⑥

西門と三重塔を見上げ、さらに本堂を目指して上っていきましょう。

jpg⑤

轟門の手前で拝観料を支払い、門の左側にある、梟の手水鉢で手と口を清めます。この手水鉢、竜の口から水が流れているのですが、何故に梟の手水鉢

清水寺 梟の手水鉢2
清水寺 梟の手水鉢4

答えは手水鉢を支えている台座に梟が彫刻されていました。

さて、本堂へ向かいましょう。轟門を潜ると弁慶が使っていたと言われる大錫杖と鉄下駄が展示されていました。
大錫杖は長さ2.6メートル重さ96キロ、鉄下駄は1つで12キロとか。鉄下駄を持ち上げようとしましたが・・・無理
本堂へ向かうと、右手には有名な清水の舞台が見えてきます。昨年、どこかのTV番組で舞台設営に関する話を放送されていた事を思い出します。信仰が集まりすぎ、お参り訪れる参拝者が増えてしまった結果、信者を収納するために舞台が造られたとか。そして舞台が先へ行くほど傾斜しているのは、振った雨水が舞台に貯まらない様に、また舞台を支えている柱に水がかからない様にと考えて造られたそうです。

本堂でお参りし、御朱印を戴いた後、音羽の滝へ向かうことに。音羽の滝なんて小学校の遠足以来やん
急な階段を下ると、音羽の滝付近には行列が せっかくなんで並んで待ちます。ようやく順番が廻ってきて柄杓を取ろうと見てみますと、紫外線殺菌装置があるではないですか こんな所でも衛生管理には気を付けているんだ感心しました。

もう一度本堂方面へ戻ろうかと思いましたが、階段は一方通行と書かれており、仕方なく舞台の下を廻って下山することに。

清水寺④
清水寺⑧

『松風や 音羽の滝の 清水を むすぶ心は 涼しかるらん』

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西国十七番札所 補陀洛山 六波羅蜜寺

満腹の腹を抱えて円山公園駐車場へ。東山通りを徒歩で15分ほどで、今日の目的地補陀洛山 六波羅蜜寺へ到着。

六波羅蜜寺正面

本堂正面の入口は閉鎖されてます。

六波羅蜜寺案内

六波羅蜜時

天暦5年(951)醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開創された西国第17番の札所。
当時京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曵き回り、青竹を八葉の蓮片の如く割り茶を立て、中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮められたという。(現在も皇服茶として伝わり、正月三日間授与している)
現存する空也上人の祈願文によると、応和3年8月(963)諸方の名僧600名を請じ、金字大般若経を浄写、転読し、夜には五大文字を灯じ大萬灯会を行って諸堂の落慶供養を盛大に営んだ。これが当寺の起こりである。
上人没後、高弟の中信上人によりその規模増大し、荘厳華麗な天台別院として栄えた。平安後期、平忠盛が当寺内の塔頭に軍勢を止めてより、清盛・重盛に至り、広大な境域内には権勢を誇る平家一門の邸館が栄え、その数5200余りに及んだ。寿永2年(1183)平家没落の時兵火を受け、諸堂は類焼し、独り本堂のみ焼失を免れた。
源平両氏の興亡、北条・足利と続く時代の兵火の中心ともなった当寺はその変遷も甚だしいが、源頼朝、足利義詮による再興修復をはじめ火災に遭うたびに修復され、豊臣秀吉もまた大仏建立の際、本堂を補修し現在の向拝を附設、寺領70石を安堵した。徳川代々将軍も朱印を加えられた。
現本堂は貞治2年(1363)の修営であり、明治以降荒廃していたが、昭和44年(1969)開創1,000年を記念して解体修理が行われ、丹の色も鮮やかに絢爛と当時の姿をしのばせている。

本堂をお参りし、御朱印を戴くために列へ。2列になっていたので右側に並んだのですが、どうも様子が違うので左側へ並び直しました。なにやらこの列も様子が違う。最前列の方が御朱印を戴いても次の方が窓口まで進まないのです。まさか・・・そうなんです、立ち止まってる一団の後ろに並んでいたのです
そそくさと窓口へ向かい、無事の御朱印を戴きました。その後、境内を散策してみました。
六波羅蜜寺本堂
六波羅蜜寺本堂②
六波羅蜜寺 一願石

ひとつの願い事を、祈りを込めながら金文字から手前に3回まわすと、願い事をかなえてくれる一願石という不思議な石があります。早速回して見ましたが、相方が途中で止めて自分で回し始めてしまったので、私の願いは叶わないでしょう・・・・ そう言えば、本堂のお参りの際も、ご縁がありますようにと5円玉をお賽銭にしたのですが、奴は便乗してましたね。

さて、次の目的地へ向かいましょう

重くとも 五つの罪は よもあらじ 六波羅堂へ 参る身なれば

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