15時まで時間があるので付近を散策しました。泉涌寺塔頭である悲田院へ。
山門脇にこの寺院に関する由来が書かれていました。
聖徳太子が身寄りのない老人や放置されている子供を収容する施設として造られたのが悲田院の始まりといわれる。延慶元年(1308)無人和尚がこれを一条安居院に再興し、四宗兼学の寺とした。
後花園天皇はこの寺を勅願寺とされ、崩御の時には当寺で御葬儀や荼毘が行なわれた。これより当寺住職は代々天皇の綸旨を賜わり紫衣参内が許された。正保3年(1646)、高槻城主・永井直清が現在地に移建し、如周和尚を迎えて住持としたのが現在の悲田院である。その後、明治18年(1885)、塔頭寿命院と合併再興され、本尊は阿弥陀如来である。
一般公開はしていないようで、毘沙門堂の障子は閉じられていましたが、阿弥陀如来立像が安置されてるという。毘沙門堂の左側には本堂があるが、外側から直接お参りすることは出来ないようである。お参りを希望される方は、寺院関係者にお願いし、案内をしていただくことになる。
こじんまりした境内ではあるが、高台に建てられているので眺望は良い。小さな展望台が境内右側に設けられているが、ベンチひとつであまりにもこじんまりしすぎて笑えるが、立派なステンレスエッチング製の案内板が設けられている。
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山門脇にこの寺院に関する由来が書かれていました。
聖徳太子が身寄りのない老人や放置されている子供を収容する施設として造られたのが悲田院の始まりといわれる。延慶元年(1308)無人和尚がこれを一条安居院に再興し、四宗兼学の寺とした。
後花園天皇はこの寺を勅願寺とされ、崩御の時には当寺で御葬儀や荼毘が行なわれた。これより当寺住職は代々天皇の綸旨を賜わり紫衣参内が許された。正保3年(1646)、高槻城主・永井直清が現在地に移建し、如周和尚を迎えて住持としたのが現在の悲田院である。その後、明治18年(1885)、塔頭寿命院と合併再興され、本尊は阿弥陀如来である。
一般公開はしていないようで、毘沙門堂の障子は閉じられていましたが、阿弥陀如来立像が安置されてるという。毘沙門堂の左側には本堂があるが、外側から直接お参りすることは出来ないようである。お参りを希望される方は、寺院関係者にお願いし、案内をしていただくことになる。
こじんまりした境内ではあるが、高台に建てられているので眺望は良い。小さな展望台が境内右側に設けられているが、ベンチひとつであまりにもこじんまりしすぎて笑えるが、立派なステンレスエッチング製の案内板が設けられている。
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