善峰寺を後にして、昼飯喰いに北へ向かいます。しっかし五条通り込んでるやん 烏丸通りもなかなかの込みっぷり。相方が「大丸の駐車場渋滞違う??」ビンゴ 右車線はおっしゃるとおり大丸渋滞。二時までに目的のお店へ着かないとと焦りつつ、手打そば 蕎麦切塩釜へ到着。二時まわってるやん
店の前通った際に暖簾が出てるのは確認済み。取りあえず、コインパーキングへ停めてお店に急ぎます。
なぁ~んや、三時迄やん^^ いつも通り、空いてる席あるのに何故か合席。天婦羅せいろセットと鳥なんばセットをお願いし暫し待つ。いつも通りの盛りっぷり あったかい鳥なんばも、普通の店やったら大盛サイズ。セットのかやくご飯も軽くお茶碗2杯分くらい。この期に及んでかやくご飯喰えんと相方がギブアップ宣言。仕方ないので全部たいらげ、腹一杯で目的地へ移動。

蕎麦切塩釜 天婦羅せいろセット2

ちょうど斜め前のコインパーキングに1台空きが。(2台しか停められませんが・・・)

行願寺0

行願寺は寛弘元年(1004年)、行円が一条小川の一条北辺堂跡に創建したものである。一条北辺堂については、『日本紀略』永祚元年(989年)8月13日条に「一条北辺堂舎倒壊」とあり、行願寺の創建以前から存在したことが裏づけられる。当初の寺地は現在の京都市上京区、京都御苑の西方で、付近に革堂町、革堂仲之町、革堂西町の町名が残る。鹿の皮を常に身につけていたことから、皮聖、皮聖人などと呼ばれ、寺の名も革堂と呼ばれた。行円の生没年は未詳だが、比叡山の横川(よかわ)出身の聖と推定されている。藤原道長の息の藤原顕信は寛弘9年(1012年)、行円のもとで剃髪出家している。

寺は豊臣秀吉による都市計画のため、天正18年(1590年)に寺町荒神口(現・上京区、京都行願寺は寛弘元年(1004年)、行円が一条小川の一条北辺堂跡に創建したものである。一条北辺堂については、『日本紀略』永祚元年(989年)8月13日条に「一条北辺堂舎倒壊」とあり、行願寺の創建以前から存在したことが裏づけられる。当初の寺地は現在の京都市上京区、京都御苑の西方で、付近に革堂町、革堂仲之町、革堂西町の町名が残る。

行円は仏門に入る前は狩猟を業としていたが、ある時、山で身ごもった雌鹿を射たところ、その腹から子鹿の誕生するのを見、殺生の非を悟って仏門に入ったという。行円はその御苑東側)に移転。宝永5年(1708年)の大火の後、寺町荒神口の旧地からやや南に下がった現在地に移転。

行願寺2

手水鉢でお清めして本堂へお参りに行きます。またもやここでも奴はここでもお賽銭便乗・・・
お参りした後、本堂脇の社務所へ。笠をかぶった熱心な巡礼者と思しき方の後ろへ並んで順番を待ち、暫くして御朱印を戴きました。

ちょっと境内を散策。といっても、民家に挟まれた小さな境内ですので時間はかかりません。
こちらのお寺には幽霊絵馬という伝説をもつ絵馬があるとか。江戸時代の末頃、行願寺の近くにあった質屋に奉公していたお文という子守女は、聞き慣れた御詠歌を子守歌がわりに口ずさみ、子供まで御詠歌を覚えてしまった。熱心な法華信者であった質屋の主人はこれを見とがめ、お文を折檻し、死なせてしまう。あわてた主人はお文の遺体を土蔵に隠し、知らぬふりをしていた。お文の両親が行願寺で通夜を営んでいたところ、彼女の幽霊が現れ、事の次第を語ったので、真相が明らかになり、質屋の主人は捕らえられたというものである。絵馬にはお文の遺愛の手鏡がはめこまれているという。境内を探してみましたが見当たりませんでした。帰って調べてみると、毎年8月20日過ぎに、この幽霊絵馬は公開されるようです。

行願寺3
行願寺4

花を見て いまは望みも 革堂の 庭の千草も 盛りなるらん

手打蕎麦 蕎麦切塩釜の記事:http://blog.livedoor.jp/hideo6581/archives/2258283.html

腹一杯すぎて晩飯も喰えるはずも無く、だけしか入りませんでした・・・ 酒だけは別腹なんで

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